guicciの日記<やだこのタイトル

2005-01-11だーだ試論 1

だーだは、もしかするといちばん巨大な存在だったのかも知れない、と彼について語ろうとするいま、ほぼはじめて切実に感じている。たとえばそりとはなにか。アホ。これでかなり片付いた気になる。ディックとは。いささか口が悪いが、たとえば東洋バカとでもいってみれば収まりがつく。おスギアニオタ恩田さんはもみあげ。田村修司はお調子者。では、だーだは? 俺には手に負えない巨大ななにものかだ、としか、とりあえず言いようがない。

たとえばザ・ビートルズでいえば明らかにポール・マッカートニ−。しかし彼(だーだ)にはクスリは必要がないし、結婚相手もひとりで十分だ。彼は幸福そうだ。性格もきわめて穏やか。額は15歳のころから丸い。マイケル・ジャクソンの力も必要ではない。

でありながら、A&G Co.の思想にもっとも深い影響を及ぼしているものをひとつ挙げよ、といえば、それは、ブッダでもフルクサスでも吉本隆明でも毛沢東でもスターウォーズでもルパン三世でも赤瀬川原平でもスネークマンショーでもなんでもない。あぜと相談なしに断言できる。それは、


   「だーだ発音


にほかならない。「だーだ発音」がなければ、A&G Co.芸術性のキモであるともいえる「すべてが加速度的に減速してながら、狂躁的に加速する」といった、アクロバティックな芸術表現はまず不可能だったと言えるだろう。

だーだ発音」とは先駆的ダウナー系だ。しかもネガティヴなニュアンスは一切ない。もう一度言う。「だーだ発音」にはネガティヴなニュアンス一切ない。晴れ渡る青空のようなダウナー思想。それが「だーだ発音」だ。

しかもそれだけではない。「だーだ発音」は徹底して無意味である。「おじいちゃんだよ」と「だーだ発音」で言われても、老人でも祖父でもなんでもない。愛されているのは「おじいちゃんだよ」という音韻そのものだけである。

いや、ほんのすこしだけおじいちゃんなのかもしれない。でもその「すこし」の分量を定量的に言い表わすことなど、だれがする気になるだろうか。「いんでぃお」「どうでもいんでぃお」。たしかに、ほんのすこしインディオなのかもしれない、というニュアンスを帯びつつも、やっぱり意味などどうでもいいとしか言いようがない。

その「だーだ発音」のすべての源泉がだーだなのだ。しかも、だーだというネイミング自体が「だーだ発音」で形成されている。完璧だ。完璧にすぎる。

神か? 神なのか?

そうかもしれない。だーだの本名は、日本人としてはきわめて平凡でもっとも単純な「山田」でしかないのだ。山田がだーだとなった瞬間、それはたぶん、人類にとって、海を見てウと言うその感受性のジャンプに匹敵するドラスティックな進化ないしは退化が起きたのだとしか、いまのところいいようがない。これを神と定義することになんの違和感も感じないのはわたしだけではあるまい。